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「ねらわれた学園」展開催!

「ねらわれた学園」展開催!





2012年12月22日から2013年1月6日まで、江ノ電の江ノ島駅近くにある「えのでんはうす」(http://www.enoden.co.jp/info/news.php?id=1340332250-246568)で、「ねらわれた学園」展を開催!
キャストやスタッフのコメント、今回初展示の複製原画など見所満載なので、ぜひご来場下さい!

[『ねらわれた学園』特別対談]中村亮介 × 氷川竜介 第五回



鮮やかな色彩の世界観と豊かな動きは
あの頃の心象風景と身体感覚を表現したもの

氷川:中村監督が得意とされる映像処理のことですが、この映画は全体がものすごく色鮮やかで、どのカットにも必ず光の乱反射のレインボーが入っていて、すごくキラキラした感じです。こうした処理を全編にかけるなど、映像面での狙いもお聞きしたいです。

中村:作業時間には限りがありますので全部がイメージ通りにいったかは別にして、作品の狙いでした。今回、この映画の技術的な目標として、「2Dのアニメの魅力ってそもそも何だろう」って考えたんです。それが、はっきり感じられる映画でありたいなと。アニメってもともと、全てが作為でできているものじゃないですか。偶然の入り込む余地が少ない表現だと思うんです。それならば、わざわざ絵で描く以上、リアルに描くことプラスα、思い切ってエモーショナルな部分を絵に乗せていきたいと思ったんです。それがこの作品には合っているだろうと。だから美術スタッフにまずお願いしたのが、「写真みたいに描かないでください」と。写真を簡略化した表現が背景なのではなく、あくまで絵画として考えてほしいと。だから壁一枚、天井一枚にも、それを「美しい」と感じた美術スタッフの思いがこもった背景になっているんです。キャラクターの動きに関しても、リアルな動きプラスα、気持ちが弾んでいる時は動きも大きく。そんなに飛んですごいなって感じてほしい動きは、ジャンプもより高く。リアルな表現をベースにしつつも、それをひとつ超えたところにある作画ならではの気持ち良さと、一方で非常に繊細な表現との対比を、この映画の表現の幅としてやっていきたいなと。あと、絵づくりの発想に関して言いますと、イラスト的、といいますか。僕は今はイラストレーターの時代だと思ってるんですけど、いわゆるBG(背景)にセル画が乗ったルックのビジュアルが、若い人にどれだけ指示されているのかな、という思いが前からあって。一枚一枚の絵を、思いきってイラスト的な発想でまとめてみる挑戦をしたんです。

氷川:この映画を観るという体験から何かを感じてもらいたいという姿勢ですよね。その体験性っていうことで言えば、中学生のころの自分って、もしかしたらこんなふうに世界をきらびやかにとらえていたのかもしれないなって思ったんです。色合いにしても、夕暮れは夕暮れらしく、月は月らしく、思春期は今よりもはるかにビビッドに見えてたかもしれないって・・・・・。
中村:おっしゃる通りです。そうやってキャラクターの心情や主観に沿って世界を描くことも、2Dのアニメだからこそできることかなと思うんですよ。僕がこの業界に入った頃は、一部のアート系アニメをのぞけば、ほぼ2Dだけがアニメを作る手法だったように思うんです。でも今は『009 RE:CYBORG』にしてもフル3Dであそこまでできる。あるいはFlashという方法もある。今の時代では、逆に僕らが“2Dでアニメを作る意味って何ですか?”って訊かれてるような気分になってるんです。だからこそ、“自分たちは2Dでしか表現できないアニメの魅力が好きだから、この手法をとっているんです”と、はっきり言えるようなアニメでありたいなと。


リアルを超えられる2Dのアニメの魅力を
はっきり意志表明する作品にしたかった


氷川:キャラクターの動きにしても、同じことを感じました。オーバーアクションと言うか、非現実的な動きをしてますよね。でも実際、中学生ってすごくエネルギッシュな時期なので、身体の動きも軽やかだった気がするんです。あれは、中学生の動きは主観的にああいう感じって、印象を再現したものかなと思ったんです。

中村:その通りです。若さの表現でもありますよね。作画という作為が、キャラクターの人間性や心情にも加担して、それを自然に誇張した動きにしたいと思ったんです。実はこの作品は動画枚数はそんなに多くなくて、4万枚ちょっとなんですよね。効率的に使っているから、よく動いてる印象があるかもしれないですけど。ただ、動画枚数に占める原画枚数が多目なんです。しかもいわゆるアニメの類型的なパターンにはまらない、難度の高い芝居の連続で。だから原画マンは大変だったと思いますが、だからこそ生まれる躍動感がある。それを生き生きと描いて頂けて、スタッフの皆さんには本当に頭が下がります。

氷川:柔らかさを強調する原画が随所に入ってないと、あんな動きにはならないですよね。目覚まし時計をはたくカットがお気に入りで、金属なのに思いきりしなって、電池までクニャッと一瞬折れて飛び出してくる (笑)。

中村:よく観ていただいてますね(笑)。でも実はあれはある種、リアルな動きでもあるんですよ。、たとえば野球選手がバットを振る時のリアルな動きをハイスピードカメラで撮ると、実際ものすごくしなってるんです。そうしたしなりを誇張してるだけのことなんですよね。実際にゆっくり動いてもらった動きを撮影したものと、速い動きをハイスピードカメラで撮影した動きは、まったく異なるものなんです。だから、実写でいかにワイヤーアクションを使って動きを誇張しても、2Dアニメのような動きとしての気持ち良さは出ないんです。僕の中で、アニメは実写の劣化した表現ではないという、強い思いがあって。アニメにはアニメの魅力がある、実写にはない魅力があるんだと強く言いたいんです。今回の映画はそれを凝縮した作品なんです。それをここまで挑戦的に、はっきり意志表明してる作品は、あまりないのかもしれないですけれど。


映像で体験・体感してもらう形で
作品全体から青春を感じてもらいたい


氷川:比較的リアルなものを求める傾向の現在の観客が、アニメならではのイメージを誇張した色彩や動きをどう受け取るか、興味津々です。

中村:今のアニメって、写真みたいな美術の上で、キャラクターの小さな動きで見せる作品が多いですよね。それをを見慣れたファンからすると、この映画を見ること自体に、ちょっとしたとまどいがあるはずだと思うんですよ。そういう意味では、この映画は2Dアニメのクラシカルな良さの延長線上にありながら、実は新鮮な体験ということになるのかもしれないなと。そうした部分でも、公開後のお客さんの反応にはドキドキしてます。

氷川:アニメは動きや色彩などビジュアルで、観客にキャラクターの感情を伝えるもの。それも気持ちが〈伝わる・伝わらない〉っていうことの一環ですよね。この映画の感想も、言葉にすると伝わる限界がありますが、「青春って輝かしくて恥ずかしい季節なんだな」と。こういう美しい彩りと伸びやかな身体で過ごした季節だったのかもしれない。それは失ったものではなく、今の自分の中にもあり続けているんだ。そう思えたことが貴重でした。

中村:僕の場合はそれを、青春という時代への、僕らの心の中にある願望として描きました。心の風景…というのかな。
実際には世界のどこにもないけれど、僕らの心の中にだけある風景であり、心の中にだけある時間としての「青春」――。
アニメという表現には、それが適していると思うんですよ。
僕は、「青春」という時代が誰にもあったとして、その最中にいる当事者は、実はそれをリアルタイムで感じることはないかもしれないと思うんです。
大人になって振り返った時に、ああ、あの時代が自分の青春だったんだなってわかる、そういう種類のものなんじゃないかと。
今の時代に、いわゆる青春ドラマの定型としての「青春」を描いたら、僕らがたちまちそれに胡散臭さを感じるのは、きっと僕らのリアルな実感からどこか遊離しているせいだと思うんですよね。
それを高校生のリアルな実感に即して描いたのが、『桐島、部活やめるってよ』みたいな映画で。これは非常にすぐれた映画で、実写の得意分野を生かしきってるという意味でも、すごい映画だと思うんですが。
でも僕は、アニメでならばむしろ、心の風景としての「青春」を描くべきだと思ったんです。
アニメでならば、それができるんじゃないかと。
でもそれは、言葉で「青春ってこういうものです」と説明してしまったら、必ず上滑りするものなんです。
それは言語化できない。だから映像としてしか表現できない。
この映画は、そういう挑戦だったんだと思うんです。
「青春」を理解してもらうのではなくて、体験してもらおうとすること。
つくり手側としては、それに真摯に向かいきったと思っています。

<完>

『ねらわれた学園』“演技論”ト―クイベント

公開中の『ねらわれた学園』の”演技論”トークイベントの開催が決定致しました。
本作の中村亮介監督と声優で斎藤先生役の木内秀信さんによる演技論トーク!!
大学講義でもお話されたお二人の演技論トークが再び!!
また当日の入場者プレゼントにはなんと複製原画を全員にプレゼント!

かなりレアなものとなっておりますので、こちらもお見逃しなく!!
この機会に是非、スクリーンでご覧ください!
詳細は以下の通りです。

●日時:2012年12月6日(木) 18:30の回 上映後
●場所:新宿ピカデリー  8番スクリーン
●登壇者:中村亮介監督、木内秀信さん

【トークショーの回 観賞券について】

インターネット販売
2012年12月1日(土) 0:00~
新宿ピカデリー オンラインチケット購入システムにてお買い求め頂けます。 
【パソコン/携帯共通】http://www.shinjukupiccadilly.com/
※料金は通常料金です。
※チケットをお買い求めにはクレジットカードが必要です。
※前売り券はインターネット販売にはご利用いただけません。
※一度の決済で6名様までご購入いただけます。
※当日は非常に多くのアクセスが集中することが予想されます。ネットワーク、サーバーに多大な負荷がかかり、お客様のご利用環境によってはページが表示されない、時間がかかる、動作が停止する等の症状が発生する場合があります。
これらに起因してご購入できなかった場合、弊社は責任を負いかねますのでご了承の上、アクセスをお願い致します。 

窓口販売
2012年12月1日(土)オープン時(8:10)より販売開始致します。
・鑑賞券は、通常料金です。
・チケット窓口では前売鑑賞券もご使用頂けます。
■問い合わせ番号:03-5367-1144 (午前10時~午後10時迄)

【ご注意】
※登壇者は予告なく変更になる可能性がございます。
※全席指定・定員入替制での上映となります。
※規定枚数に達し次第、販売を終了致します。
※イベント上映回は座席指定券をお持ちでない方はご覧になれません。
※場内でのカメラ(携帯カメラ含む)・ビデオによる撮影・録音などは固くお断り致します。
※転売目的でのご購入は、固くお断り致します。
※いかなる事情が生じましても、ご購入のチケット変更、払い戻しはできません。

[『ねらわれた学園』特別対談]中村亮介 × 氷川竜介 第四回



戦わずして海へ連れていく主人公像
そのプロットからキャラが作られていった

氷川:物語で驚いたのは、クライマックスです。京極がケンジに「決着をつけよう」って言って、普通ならそこから壮絶な戦いになるところなのに、そこで突然ケンジは、のんきに海に行こうって言い出す。緊張感からのあの落差に「えっ!」とびっくりしました (笑)。力による対決を避けようとしたのは何か理由があったのでしょうか?

中村:海に行くプロットは、かなり初期からのものですね(笑)。ひとつには、物語が予定調和におさまらない、意外性が欲しいということ。でもそれだけなら、単に変化球を投げたいだけの、ひとりよがりな技巧になってしまうので。、それがケンジというキャラクターにとって「らしい」展開であることが、もっと大きな理由です。中学生の時自分を思い返すと、自分を他人の目から、いかに大きく、カッコよく見せるかばかり気にしていて。ありのままの自分、等身大の自分で、人と接することができなかったように思うんです。いちばん親しい友達との間でさえそうで…。見渡せば、まわりの誰もがそうだったように思うんですよ。そういう心の通わなさを思い出すと、今でも悔いが残ってるんですよね。だから主人公のケンジは、そうした自意識から自由で、飾らずありのままに生きている子であって欲しかったんです。平和な時代には目立たないけれど、京極の計画が進んで学園が緊迫していくと、いつもどおり変わらないからこそ光って見えるような…。そんな主人公であって欲しかった。逆に言えば、対決の場面でも朗らかに「海に行こうよ」って言えちゃう子って、どんな子だろうって。プロットから、キャラクターを考えていった面もありますね。


描かれている超能力と言葉の解釈
ケンジが物語るセリフが意味もするものは?


氷川:あそこでは思わず笑ってしまいましたが、そのあと海岸でのやりとりで、一番大事なことを語ってもいるんですよね。あと見終えた後に残る疑問は、ケンジとナツキの糸電話にまつわる回想シーンです。あれは、過去を変える超能力をナツキも使っていたということになるんですか?

中村:今回の映画のテーマから考えれば、ほんとうは超能力はテレパシーだけに限定したかったんです。でも原作に準じれば、京極は必ず未来から来るわけで…。無制限に時間移動できると、そのパラレルワールドの整合性をとるだけで、ものすごい説明量が必要な作品になっちゃうんですよ。もちろんそういう作品もあっていいんですけど…、原作もそこらへんは大らかに扱かってまして。原作の京極(父)も、小刻みに時間をさかのぼれたら、耕児(ケンジの祖父)を簡単に負かせちゃうんです。だから今回の映画でも、時間移動能力をどう制限するかが、非常な難題でして。一応はルールを決めつつも、できればあまりそこにお客さんの関心が向かないで、メイン四人の人間関係のドラマを楽しんで見てもらえるように演出できたら、それが一番いいなと思ってました。――で、まずは、一往復するのが人間の体の限界であることにしようと。それ以上は、実体のない思念体の形でしか来れない。それから超能力があっても、有限であることにしようと。ナツキのように、もともとチカラはあっても使い切ってしまったパターンの人も示しておくことで、のちに京極も同じくチカラを使い切ることや、滞在時間にタイムリミットがあることへの違和感を少なくしようと。そこらへんの、なんというか…「有限」な感じは、なるべくなら砂時計というアイテムがもつ「タイムリミット感」のメタファーで、理屈よりも印象的に理解してもらって、長々した説明セリフは避けられたらなあ…と。それから、ケンジとナツキの糸電話のやりとりに関して言うと、まずは、あのシーンはナツキの夢なので、あくまでナツキの主観であることを前提にしようと。つまりケンジがナツキの夢の中でなんと言おうと、それが確実な過去かどうかは解釈の余地があって、夢らしい錯綜した演出の中に溶かしこんでしまおうと。で、ケンジの「あの時、実は死んだんだ」っていうセリフは衝撃的なわけですけど、まず第1にその一言で、パラレルワールドが存在しても、それは修正されればなくなる設定――現実にケンジは今の世界に存在しているわけですから――であることにしょうと。第2にナツキがケンジを救ったから助かったわけですけど、それほどナツキがケンジを大切に想っていたエピソードの一つであると。第3に、このあとにくるケンジとナツキの別れを、さきに別れの挨拶をして月に向かう姿で、予兆として示そうと。第4に、「本来ならばこの世界に存在しなかった人間」同士のシンパシーが、京極とケンジのあいだで生まれるきっかけにしようと。京極はそうした自分の存在に悩む人間であり、ケンジは自分の存在に込められた他人の想いを受け入れた上で、物語のラストでは京極に、共に歩める道を示せるような存在でありたいなと。第5に、演出的にはこれが一番大事ですけど、ケンジとナツキとの間に、言葉ではコミュニケーションが成立しない瞬間を示すこと。――ケンジの言葉を聞いた子供ナツキが首をかしげるわけですけど、それはお客さん全員の気持ちでもあって。ナツキの夢の中なので、お客さんもナツキの目線でケンジの話を聞いているわけですよね。で、それが最終的には「でも…」とケンジが京極を救うシーンにつながって、納得がいけば良いなと。そのシーンでは「救う」という意味合いをわかりやすくビジュアル化して…、言葉がなくても手と手をつなぐケンジと子供ナツキに、この作品のテーマを象徴することにしました。これらがテンポが悪くならずに、なおかつ一回見ただけで全部わかるように説明できたら、僕も自分をかなりの演出だと思えるんですけど、残念ながら…(苦笑)。今の自分ではおそらく、テレビシリーズならこれに丸一話ぶんくらい尺をとってしまうと思ったんです。全体尺がオーバーしていることもずっと言われてまして…。でも他のシーンも含めて、トータルではそう理解して頂けるように細かい要素を仕込みましたので。ぜひ何度か見て頂いて、それで理屈の上でも納得して頂けるなら嬉しいです。一回ではわからなかったり、こうやって取材で監督の説明が必要になってしまうのは今の僕の力不足で。反省点だと思ってますし、何より監督がなんと言おうと、解釈はお客さんのものなんです。

氷川:なるほど。そういうモヤモヤが残るところ含め、主流と違うところがいいなと思ったんです。ある種の引っ掛かりがあったほうが余韻が残るし、もし2回、3回とご覧になるお客さんがいるとしたら、新発見があって楽しめる。あのワンちゃんにしても、いったい何だったのか、今ひとつはっきりさせてないですよね。

中村:シロも、ケンジの力を封じ込めた思念体で、実際の犬ではないという設定で…。なるべくわかるように、ちょいちょい要素は仕込んだつもりなんですが、はっきりしなくてすみません。スタッフからも「2回目に観たほうが伏線が理解できて面白い」という意見が多くて、「一回じゃそんなにわからないかな!?」って気にしてるんですよ…(笑)。僕個人は宮澤賢治とか、説明がまったく不足している児童文学も、それはそれで楽しめる性格なので。お客様にもそう楽しんで頂けたなら、一番嬉しいんですが。


相手側に立って読み返してみるということ
全部を説明しない、余白のある文学的な作品


氷川:他に注目したのは、原作の続編的なドラマ要素です。小説では深く描かれてはいないものの、高見沢みちるというキャラクターが、最後は別の目的地に向かう京極について行く。でも、カホリは違う行動をとります。

中村:それもかなり早い段階から、この映画では連れていかずに終わるラストにしようと思ってました。

氷川:最近、原作の文庫を再入手したら、「もし何回も読み返すなら、主人公側だけでなく、相手側の登場人物の立場からも読んで欲しい」という文章があって、すごく気になったんです。アニメ版では、かつてついていった側の気持ち、そこで生まれたドラマも想像できるので、ああ、この映画って、そういうスタンスなんだって思ったんです。

中村:眉村卓先生の前書きですね。すごく良い文で。まさにこの映画も原作のように、そうありたいと思いました。

氷川:本当に原作では一瞬しか描かれてない展開ですよね。それに対する想像力を膨らませた感じもしたんです。そういうことも含めて、あえて全部を説明しないで進められたのかなとも思いました。

中村:そうですね。行間を広めに取った作品だと思います。今の映画って、たとえ事態が緊迫していても、長々全部を説明しきった上で、さあ救出!とか、そういう映画が多くなった印象があるんですよね。僕としてはそこまで親切でなくとも、ドラマのテンポを止めずに、最小限の説明から感じてもらえるようなフィルムにできたらという思いはありました。良い言い方をすれば、文学的に。小説を原作にしている以上、文学的な部分はあっていいと思うんですけど、匙加減に迷う部分でもありますよね。

氷川:細田守監督の新作『おおかみこどもの雪と雨』も、やはり行間がいっぱい空いていて、すべてを明らかにしていません。杉井ギサブロー監督の『グスコーブドリの伝記』や宇田鋼之介監督の『虹色ほたる~永遠の夏休み~』など、今年はそういうアニメ映画が多いんですよ。あ時代は想像力や思いやりを大切にする方向なのかなって・・・・。

中村:そう言われてみればそうですね。今の時代に「行間」のゆとりを求めたくなる、何かがあるんでしょうか。「ねらわれた学園」に関していえば、中高生から楽しめるものにしたかったので、あまり文学的すぎてもいけない。作品のテーマや少し難しいやりとりは、一回ではぼんやりしかわからなくても、できるだけ入り口は広くして。人間関係のドラマとしてなら、初見で楽しく観てもらえたらいいなと。その上で、それ以上の楽しみ方も仕込んでおきつつ…。それこそ眉村先生の前書きの言葉ですが、同じ物語を相手の立場から見直したり、あるいはもっと年を取ってから見返した時に、また別の発見や感じ方をしてもらえたならば、すごく嬉しいですね。


第五回へ続く

「ねらわれた同窓会!!トークイベント」 ~中村監督と荒木監督による”同級生”トーク~

公開中の『ねらわれた学園』の”同窓会”トークイベントの開催が決定致しました。
「ねらわれた学園」の中村亮介監督と「ギルティクラウン」の荒木哲郎監督は
なんとマッドハウス時代の同級生!今回、「ねらわれた学園」の現場で久しぶりに再会したお二人の同窓会トークが『ねらわれた学園』 の上映後に行われます。
再会から、一緒に仕事をされての感想などお二人ならではのお話をお聞きします!!
この機会に是非、スクリーンでご覧ください。また、サイン入りティザーポスターが当たるプレゼント抽選会も実施致します!!

詳細は以下の通りです。

日程・上映館:11月30日(金)18:10の回シネマサンシャイン池袋にて
登壇:中村亮介監督、荒木哲郎監督
販売方法: 劇場HPまで http://www.cinemasunshine.co.jp/theater/ikebukuro/

【ご注意】
※登壇者は予告なく変更になる可能性がございます。
※全席指定・定員入替制での上映となります。
※規定枚数に達し次第、販売を終了いたします。
※イベント上映回は座席指定券をお持ちでない方はご覧になれません。
※場内でのカメラ(携帯カメラ含む)・ビデオによる撮影・録音などは固くお断り致します。
※転売目的でのご購入は、固くお断り致します。
※いかなる事情が生じましても、ご購入のチケット変更、払い戻しはできません。